1960年代後半の日本のグループ・サウンズを代表するバンド、ザ・タイガース。
ボーカルの沢田研二(ジュリー)さんを中心に、当時の若者文化・ロックブームを牽引し、日本中で絶大な人気を誇りました。
ビートルズやベンチャーズの影響を強く受けながら、日本独自のアイドル的存在ともなり、テレビや映画など多方面で活躍しました。
しかし1971年1月24日に解散しました。
その背景にはどのような理由があったのでしょうか?
そこで今回は、
1・ザタイガースの解散理由3選とメンバーの今
2・ザタイガースのメンバー加橋かつみの脱退理由
3・ザタイガースの解散コンサートと復活コンサート
について調べてみたいと思います。
ザタイガースの解散理由3選とメンバーの今
ここからは、ザ・タイガースの解散理由3つとメンバーの今について詳しく調べてみました。
理由1・メンバー間の確執
渡辺プロダクションのアイドル的なプロモーション路線と、メンバーが志向するロックや芸術的方向性との間で意見が対立し、特に沢田研二さんと加橋かつみさんの不仲が深刻でした。
加橋さんは待遇面や音楽面での不満を持ち、1969年に失踪し脱退。
これがメンバーの心に大きな亀裂と混乱を生み、グループの結束力を弱めました。
理由2・ 方向性や待遇への不満
バンドとしてビートルズ的なロック志向を目指すメンバーと、「商品」として扱う事務所(渡辺プロダクション)との間で、音楽性や待遇面(ギャラの格差など)に関する強い不満が表面化しました。
後から知った話ですが、当時、僕らの給料は、他のGSの人たちよりも全然安かったんです。人気絶頂の頃で月50万~60万円。タクシー料金が1メーター、100円くらいの時代です。一般のサラリーマンに比べれば、良い給料でしょう。ただ、他のGSの中には僕らの4~5倍もらっていた人もいたそうです
引用:デイリー新潮
待遇面や方向性の違いが、メンバーの脱退・引退の大きな動機となりました。
理由3・GSブームの終焉と今後への不安
グループ・サウンズ(GS)ブームが下火になり、人気下降の兆しとともにメンバーそれぞれが次の道を模索し始めました。
脱退希望や今後の進路面談が増え、チームワークも徐々に崩壊していき、グループ存続への意欲が失われたことが引退要因の1つとなりました。
「解散が見え始めると、それぞれ、次のバンドの準備に取り掛かっていたからね。タイガースに対するモチベーションも下がる一方だった。もちろん、演奏はしっかりやったが、表情とかトークで、プロとしてはダメだろう……、と思われる雰囲気を出しちゃう。こうなると、メンバー間の確執も出て来る。今思えば、若気の至りでしょうけど、解散までの1年半くらいは、けっこう辛かったですよ」
引用:デイリー新潮
ザタイガースメンバーの今
加橋かつみ(トッポ)
加橋かつみさんは現在も音楽活動を続けており、定期的にライブパフォーマンスを行っています。
彼は音楽プロデューサーとしても活動し、自身のブログやSNSでファンと交流を続けています。
家族との時間も大切にしており、穏やかな生活を送っています。
沢田研二(ジュリー)
沢田研二さんはソロとして長いキャリアを持ち、2025年もコンサートツアーを行うなど精力的に活動しています。
日本の音楽シーンに多大な影響を与え続けており、根強いファン層を保持しています。
最近ではメディア出演やテレビなども活発にこなしています。
岸部一徳(サリー)
岸部一徳さんは俳優としても成功しており、テレビドラマや映画での活躍が目立ちます。
音楽活動は控えめながら、時折ザ・タイガース関連のイベントに参加することもあります。
瞳みのる(ピー)
瞳みのるさんはザ・タイガース解散後、慶應義塾大学で中国文学を専攻し、大学院まで進学しました。
その後、慶應義塾高等学校で中国語・漢文の教師を約33年間務め、2010年に定年退職しています。
教師としての期間は音楽活動から離れていましたが、退職後はミュージシャンとしての活動も再開しています。
森本太郎(タロー)
情報としては限られていますが、森本太郎さんも音楽や芸能活動を続けています。
再結成時に参加することもあり、今もなおザ・タイガースに関連した活動に関わっています。
ザタイガースのメンバー加橋かつみの脱退理由
ここからは、ザ・タイガースのメンバーであった加橋かつみさんが脱退した具体的な理由について探ってみたいと思います。
加橋かつみと沢田研二の不仲
加橋かつみさんはロック志向や芸術的価値を重視し、沢田研二さんは事務所の意向を忠実にこなす“プロ意識”が強かったため、互いの考え方や行動方針に大きな差が生まれました。
過密なスケジュールやファンの過熱ぶりも、メンバー全体のストレスとなっていました。
特に1968年1月27日の渋谷公会堂楽屋で、二人は激しい殴り合いの喧嘩にまで発展しています。
その後は口もきかず、加橋かつみさんは脱退の意向を強めました。
メンバー間の孤立と摩擦
加橋かつみさんは外部の文化人との交流や、自身の理想に刺激を受ける一方で、バンド内では理解されにくく孤立していきました。
メンバーが同じ合宿所に住む中、加橋かつみさんだけはひとり離れて暮らすようになるなど、距離が出来ていきました。
脱退劇と失踪騒動
加橋かつみさんは何度も脱退の意思を事務所に伝えますが認められず、最終的に1969年3月5日、渋谷のレッスン中にスタジオを離れて失踪。
当初はメディアに「失踪」と報道されましたが、これは実際には加橋かつみさんの脱退希望を受けて渡辺プロダクションが仕組んだ「脱退劇」でした。
渡辺プロダクションは、加橋かつみさんを特別に解雇することがザ・タイガースの人気低下につながると恐れ、あたかも加橋さんが自発的に失踪したように見せかけました。
その間、加橋かつみさんとその母親は事実上ホテルに拘束され、外部との連絡を絶たれていました。
この意図的な隔離によって加橋かつみさんが自由に行動できない状況を作り出したのです。
この「自発的失踪」体裁の脱退劇は、メンバーにも事前に知らされておらず、大きな戸惑いと衝撃を与えました。
ザタイガースの解散コンサートと復活コンサート
ここからは、ザタイガースの解散コンサートと復活コンサートや、ザ・タイガース再結成時に作られた曲について詳しくお伝えしていきます。
ザタイガースの解散コンサート
解散コンサートの概要
- 日時:1971年1月24日
- 場所:日本武道館
- コンサート名:「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」
特徴と内容
- コンサートは日本武道館で大観衆を前に開催され、ニッポン放送で生中継され、テレビ(フジテレビ)でも録画放映されました。
- セットリストには「僕のマリー」「モナリザの微笑」「君だけに愛を」などのヒット曲が含まれ、盛大で感動的なステージとなりました。
- 解散発表は1970年12月7日に既にされており、当日の楽屋では加橋かつみさんのステージ参加を巡ってメンバー間で意見が分かれ、最終的に加橋さんはステージに上がりませんでした。
ザタイガースの復活コンサート
2013年復活ツアーの概要
- 日程:2013年12月3日(日本武道館)から12月27日(東京ドーム)まで、全国8ヶ所でライブを実施。
- 主な会場:日本武道館、東京ドーム、京セラドーム大阪、名古屋国際会議場ほか。
- メンバー構成:沢田研二、岸部一徳、森本太郎、瞳みのる、加橋かつみ。
最終公演では岸部四郎も体調不良ながら登壇し「イエスタデイ」を歌唱しました。 - 動員:約10万人を集める大成功となりました。
コンサート内容と特徴
- ライブは第1部でビートルズなど洋楽カバー、第2部では「花の首飾り」「君だけに愛を」「色つきの女でいてくれよ」など往年のヒット曲を披露。
- チャリティシングル「THE TIGERSのWhite Christmas」なども制作され、各メンバー自ら役割分担し、サポートメンバーなしの“5人だけの演奏”を貫きました。
- ファンとの交流やトーク、サイン会などもあり、温かみあるイベントとなり、復活を「奇跡」と絶賛する声も多く寄せられました。
再結成時に発表された「色つきの女でいてくれよ」
「色つきの女でいてくれよ」はザ・タイガースが1982年に「同窓会」名義で再結成した際に発表されたシングル曲です。作詞は阿久悠、作曲と編曲は森本太郎が担当しました。
1982年2月5日にリリースされ、「十年ロマンス」に続く復活プロジェクト第2弾シングルとして制作されました。
また、「色つきの女でいてくれよ」はコーセー化粧品のイメージソングとしても使われ、ザ・タイガースにとって12年ぶりにオリコンチャートのトップ10にランクインしたヒット曲でした。
まとめ
ザ・タイガースの解散理由は、メンバー間の確執や事務所との不和、そして時代の変化による音楽シーンの変動が重なった結果でした。
夢を追いかけた彼らの軌跡は、多くの人々の心に今も深く刻まれています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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