「恋のバカンス」などの名曲を残し、昭和を代表する双子の女性デュオとして国民的人気を誇ったザ・ピーナッツ。
1975年に惜しまれつつ引退を発表し、ファンや音楽業界に大きな衝撃を与えました。
その背景にはどのような理由があったのでしょうか?
そこで今回は、
1・ザピーナッツの引退理由3選や死因
2・ザピーナッツと沢田研二の関係や息子
3・ザピーナッツのプロフィールや名曲
について深堀りしてみたいと思います。
ザピーナッツの引退理由3選
ここからは、昭和の双子デュオ・ザ・ピーナッツが人気絶頂の中で引退を決めた理由3つについてお伝えしていきたいと思います。
理由1・これ以上高みを目指す必要を感じなかった
公式発表では、「これ以上、さらなる高みを目指す必要を感じなかった」という本人たちのコメントが残されています。
そのように語った背景には、16年間の活動で日本の音楽界を牽引し、国内外で大きな成功を収めたことによる「十分な達成感」と「一つの頂点に達したという実感」からだとされています。
絶えず第一線で活躍し続け、多くのヒット曲や伝説的なパフォーマンスを重ねたことで、新たな挑戦よりも「ここで幕を下ろすのが最善」だと判断したと考えられます。
デビューから16年間、日本の音楽界をリードし、国内外で大きな成功を収めたことによる達成感が大きかったとされています。
理由2・惜しまれるうちに身を引きたかった
伊藤エミさんは引退記者会見で「惜しまれる時にやめたかった」とコメントしています。
その背景には彼女たちがすでに日本の音楽シーンの頂点に立ち、多くのヒット曲や伝説的なパフォーマンスを成し遂げたという自負がありました。
人気絶頂期に引退することで、ファンや関係者に最高の状態で覚えていてもらいたいという強い思いがあったのでしょう。
また、芸能界という華やかな世界に長く身を置く中で、自然体で魅力を保ち続けることの難しさや精神的なプレッシャーも感じていたため、無理に続けて人気を落とすよりも「潔く引退する」ことを選んだのかもしれません。
最盛期に美しく引退し、ファンや業界の記憶に理想的な姿で残ることを望んだ意識が強かったと考えられます。
理由3・普通の女性としての生活を望んだ
ザ・ピーナッツが「普通の女性としての生活を望んだ」理由は、芸能界という華やかな世界から離れ、家庭や身近な人と静かに過ごすことを強く望んだからです。
1975年に引退後、伊藤エミさんは歌手の沢田研二さんと結婚し、芸能活動を完全にやめて一般の生活に入りました。
引退後は世田谷の自宅で息子や妹のユミさんとともに家族生活を送り、町内会の役員など地域社会にも溶け込み、気さくで普通の女性としての生活を続けていました。
公の場にはほとんど姿を現さず、芸能界での華やかな活動とは一線を画した静かな生活を選んだのです。
芸能界のプレッシャーからの解放と自分らしい生活を大切にしたいという思いから引退を決意したのでしょう。
姉・伊藤エミの死因
伊藤エミさんは2012年6月15日に71歳で亡くなり、死因はがんでした。
2012年春に転倒して腰を強く打ったことがきっかけで精密検査を受けたところ、がんが発見されました。
がんはかなり進行しており、診断から約1ヶ月で亡くなりました。
最期は妹の伊藤ユミさんや家族に看取られました。
関係者によると、今年春になって転倒が原因で腰などを強く打ってしまった。なかなか治らないため、精密検査を受けたところ、がんが見つかった。がんはかなり進行しており、入院生活を続けたが、判明から1カ月ほどで亡くなった。最期は妹ら家族にみとられた。
引用:日刊スポーツ
妹・伊藤ユミの死因
伊藤ユミさんは2016年5月18日に75歳で亡くなりました。
死因は親族の意向により公表されていませんが、かねてより病気療養中だったと報じられています。
葬儀や四十九日の法要は近親者のみで執り行われ、公の追悼会等は行われませんでした。
死因などは親族の意向で公表されていないが、病気療養中だったという。葬儀・告別式、四十九日の法要も近親者のみですでに執り行われており、お別れの会などの予定もないという。
引用:日刊スポーツ
ザピーナッツと沢田研二の関係や息子
ここからは、ザ・ピーナッツと沢田研二さんとの関係や息子について深堀りしてみたいと思います。
馴れ初めは楽曲提供
ザ・ピーナッツの姉・伊藤エミさんと沢田研二さんは夫婦関係にありました。
沢田研二さんと伊藤エミさんの交際開始のきっかけは、沢田研二さんがザ・ピーナッツに楽曲を提供したことにあります。
1970年代初頭、沢田研二はザ・ピーナッツの楽曲「東京の女」など数曲の作曲を担当し、その仕事を通じて伊藤エミさんと出会いました。
二人は同じ所属事務所・渡辺プロダクションに所属していたこともあり、音楽活動を通じて親密な関係を築いていきました。
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結婚と披露宴
沢田研二さんと伊藤エミさんは約7年間の交際期間を経て、1975年5月18日に婚約しました。
当時、沢田研二さんは27歳で伊藤エミさんは7歳年上の34歳でした。
1975年6月4日に正式に結婚し、1975年7月20日に京都の比叡山延暦寺で盛大な結婚式を挙げました。
結婚式は約2万人のファンを無料で招待した屋外の結婚披露コンサートとして行われ、特設ステージや多数のスピーカー、厳重な警備体制のもと実施されるなど、当時の芸能界でも異例のスケールでした。
沢田研二さんが妻である伊藤エミさんを紹介した際には、会場から歓声と悲鳴が混ざった盛大な反響が起こりました。
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沢田研二の不倫と離婚
1982年に沢田研二さんは女優の田中裕子さんと不倫関係を始めました。
2人は映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』での共演がきっかけで親密になり、沢田研二さんは田中裕子さんの音楽監督も務めました。
やがてこの不倫は公然の秘密となり、その後、沢田研二さんは家を出て田中裕子さんの元に通う日々が続きました。
この不倫が直接の原因となり、沢田研二さん伊藤エミさんは1987年1月に正式に離婚しました。
離婚に伴う慰謝料は当時の日本芸能界史上最高額となる総額18億1800万円で、世田谷の自宅や別荘、テニスコートなども含まれていました。
伊藤エミの息子は今
沢田研二さんと伊藤エミさんの間には1979年3月に長男の澤田一人(さわだ かずと)さんが誕生しました。
2人が離婚した際の親権は母・伊藤エミさんが持つことになりました。
離婚後、澤田一人さんは伊藤エミさんと双子の妹である伊藤ユミさんと共に暮らしていました。
伊藤ユミさんは生涯独身で、甥のように一人さんをかわいがり、育てたとされています。
2012年に伊藤エミさんが亡くなった後も、しばらくは叔母である伊藤ユミさんと二人暮らしを続けていました。
2013年に澤田一人さんは自立を希望し、一人暮らしを始め、世田谷の豪邸は売却されました。
一人さんは一般人として静かな生活を送り、詳細な個人情報は公にされていませんが、音楽関連の仕事に携わっているとの情報もあります。
父・沢田研二さんとは長期間会うことが少なく、25年ぶりに再会したことも話題になりました。
母親の遺言を伝えるなど、複雑ながらも親子関係を徐々に再構築している様子も報じられています。
ザピーナッツのプロフィールや名曲
ここからは、ザ・ピーナッツのプロフィールや名曲について探ってみたいと思います。
ザピーナッツのプロフィール
メンバー
- 姉:伊藤エミ(本名:澤田日出代、1941年4月1日生まれ、2012年6月15日没)
- 妹:伊藤ユミ(本名:伊藤月子、1941年4月1日生まれ、2016年5月18日没)
生い立ちと経歴
ザ・ピーナッツは1941年4月1日、愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)で生まれた双子の姉妹、伊藤エミさんと伊藤ユミさんによる女性歌手デュオです。
子供の頃から名古屋市で育ち、10歳の頃にはNHKの児童唱歌隊に所属して歌唱の基礎を学びました。
高校は名古屋市立西陵商業高校に通いましたが、中退し、「伊藤シスターズ」として地元名古屋のレストランなどで歌い始めました。
1958年、渡辺プロダクションの社長・渡邊晋氏にスカウトされて東京に上京し、作曲家・宮川泰さんに師事しながら本格的に歌手活動を開始。
1959年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビューしました。
ザピーナッツの活躍と名曲
ザ・ピーナッツは1959年に「可愛い花」でデビューし、その後、16年間にわたって日本の音楽界でトップクラスの人気を誇っていました。
彼女たちは日本のポップス黎明期を代表し、多くのヒット曲をリリースしました。
主なヒット曲には、「恋のバカンス」(1963年)、「恋のフーガ」(1967年)、「ウナ・セラ・ディ東京」(1964年)、「情熱の花」、「悲しき16才」などがあります。
これらの曲は今も名曲として知られ、多彩なジャンルの曲を美しいハーモニーで歌い上げました。
ザ・ピーナッツはNHK紅白歌合戦に16回連続出場を果たし、紅組史上初のグループ歌手として記録を残しています。
テレビ番組『ザ・ヒットパレード』や『シャボン玉ホリデー』のレギュラー出演でも人気を博し、多くのファンから愛されました。
さらに、映画『モスラ』での小美人役を始め、映画や舞台にも活躍の幅を広げ、日本のエンターテインメント界に多大な影響を与えました。
1975年に惜しまれつつ引退しましたが、その活動期間中に1000万枚以上のレコードを売り上げ、昭和の音楽シーンを代表する存在となりました。
ザピーナッツの人気の理由
ザ・ピーナッツの人気の理由は、彼女たちの楽曲には欧米のポップスやシャンソンの影響がありながらも、日本人の感性に合った親しみやすいメロディと歌詞が特徴だったことです。
デビュー曲「可愛い花」は明るく軽やかなメロディが若者を中心に大ヒットし、当時の日本に新しい音楽の風を吹き込みました。
また、衣装やダンスのパフォーマンスにも力を入れ、双子ならではの息の合ったシンクロダンスや華やかなドレスで視覚的にも楽しませ、ステージ上での笑顔やパフォーマンスは観客に元気や希望を与えました。
さらに、彼女たちの自然体な魅力も大きな人気の要因でした。
双子だからこそ見せられる息の合った掛け合いや仲睦まじさはファンの心をつかみ、等身大の親しみやすさを感じさせました。
加えて、当時の音楽業界を牽引した渡辺プロダクションの全面的なサポートにより、歌唱力や表現力が磨かれ、多彩な楽曲で実力を証明しました。
テレビ番組や紅白歌合戦にも度々出演し、その存在感は世代を超えて広がりました。
まとめ
1959年のデビュー以来、日本の音楽シーンを16年間リードし、多くのヒット曲と華やかなステージで国民的な人気を誇ったザ・ピーナッツ。
1975年に本人たちの意思で惜しまれつつ引退を決意しました。
華やかな双子の絆と実力で築いた伝説は今も語り継がれており、引退後は一般の生活を選んだ二人の姿勢もファンに深い感動を与えています。
ザ・ピーナッツの輝きは、永遠に色あせることなく、日本の音楽史に刻まれていくでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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